相模原殺傷事件から3年経ちました

日常
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相模原殺傷事件から3年がたつのですね。被害者の苦しみや恐怖、遺族の悲しみと怒りを思うとやるせなさで一杯ですが、せめて被害者の方が今は安らかに過ごしていることを願います。

そして相模原殺傷事件の加害者の言葉について自分なりに思った事を記載してみますね。

 

 

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許される事件では決してないけど加害者の言葉が胸に刺さる

加害者の障がい者への考えは事件当時と変わっておらず「介護は人の時間とお金を奪っている」と言っているようです。

当時の事件の残忍さを思うと決して加害者がしたことは許されることではないです。

 

障がい者でも健常者でも誰でも生きたいと思ったら生きる権利がありますし、本人だけではなく家族や周りの人たちもそう願っている人達の想いを打ち切ることは出来ません。

ですが…介護が人の時間とお金を奪うことは間違ってはいないんですよね…。これは障がい者にかぎらず今まで健康だった人も当然含まれるのですが。

 

介護とは人に寄り添い世話をすることですから、その時間は相手へ与えることになります。

その時間の間は自分のことに使えません。どれだけ自分が疲労困窮していても、相手の状態によっては自分の身を削り介護しなくてはなりません。

 

辛い時にはヘルパーや施設を利用してという声がありますが、利用できるならとっくに利用している人が多いのではないでしょうか。でも出来ないのは単純にお金がないからです。自分の介護の負担を軽くしてもらうのだから当然の対価とはいえ相当な金額になります。

 

それを利用することが出来る人は元々貯金がある人ではないと難しいです。また今は利用者に反比例して、介護職の人の数が徹底的に足りていないのは社会状況からも明らかです。

 

もしお金がいくらかあってもヘルパーや施設を利用できないと自分が介護するしかありません

それは家族がいる人なら誰もが降りかかることです。勿論自分が介護される側になる可能性も十分ありますよね。

 

 

 

介護は誰にでもふりかかるし誰もが聖人君子のようにはなれない

介護は昔から神聖なイメージが強いと思います。今迄お世話になってきた老親を始めお年寄りに優しく接する…そんなイメージが。だからこそいざ現実に直面するとギャップにやられやすいです。

 

そんな清らかな心で接することが出来る人はどれだけいるのでしょうか。

または逆に割り切って接することが出来れば1番いいのでしょうが、どちらも中々難しいです。

 

私は亡き母が亡くなるたった10か月の介護に疲れ果ててしまいました。亡き母は幸い亡くなる数日前までトイレ以外は殆ど生活は出来ていたもののベッドに寝る時や食事の時は気を使いますし、心情的にもドンドン元気がなくなる母を見るだけでこちらも当然元気がなくなります。

 

本人が1番大変なのは分かりますが周りもかなり辛いです。

そんな時にはたして正論や正気を保ちながら介護が出来るのでしょうか。

 

 

 

どうしても辛いもう自分には限界と思った時に合法的な手段があれば少し救われるのに

介護する側もされる側も生きたい、生きていてほしいと日々願いながら生活を送っている人達には本当尊敬しますし是非生きて頂きたいです。

 

そのような優しい思いと忍耐力がきっとほかの人たちの力になりますし、障がい者や役に立たない奴は死ねと言う酷い言葉を放ち、それをあろうことか自信満々に言うやつは一体何様なのかという思いですから。

 

どれだけの人物なんでしょうね。まぁ本当に立派な人はそんなこと言わないし、思いつきもしませんからそう公言する人こそが屑と心底思います。

 

ただ…自分にはもう限界、辛くてたまらない、という介護者や被介護者がもしいたら、ここまでよく頑張った、最期は安らかにあの世へ行かせてあげようと安楽死の道を提示出来たらいいのにと思います。

 

それは寿命の最後まで全う出来たら1番ですが、限界を超えたまま介護するのは何も利点がありません。そしてその気持ちは介護される側にも伝わるはずです。

たまに全然平気な人も居るでしょうが、私ならそんな思いをしてまで介護をしたくもされたくもありません。辛すぎますから。

 

だから生きることこそ正義と主張する人には、介護の辛さや生きるのが辛くて仕方がない人の気持ちは分からないんだろうなと思います。

 

 

 

まとめ

お綺麗な言葉が蔓延する一方、弱者や役に立たない人たちはいなくなれという風潮、自己責任の嵐、金持ちが結局1番得をする汚すぎる世の中にうんざりの中ですが、最も辛いのはもう人生を終わらせたいと思った時に手段がないことかなと思ってしまいます。

 

そういう悩みを伝えると誰だって大変とかきっといつかいい事あるよと無責任なことを言われますが、最も言われたくないか言われすぎてちっとも心に響かずむしろ不快な言葉ばかりなんですよね。

 

もう頑張れない、逃げたいと思っても別におかしくもなんともないのですが、言った途端恐ろしく叩かれまくる窮屈すぎる風潮。いつからこんな世の中になったのかなぁ…人間は元々醜いけどここまで酷くはなかったような気もします。

 

だからこそ障がいを持ちながらも懸命に生きていた被害者や辛く苦しいことが沢山あっただろうけどそれでも日々を大切に生きてきた遺族の悲しみを思うと、やはりこのような事件は許されることではないです。

 

そして介護の大変さ、辛さ、誰にでも降りかかるからこそ最後の手段として安らかな最期を迎えられる方法があれば救われる人も沢山居るはずなんですが、こんな事件があっても安楽死法は成立しなさそうですね…。

一体何人の命が亡くなれば合法的な死という声が届くのでしょうか。

 

 

 

 

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