今年は12年ぶりに台風が上陸しない年だそうです。12年前と言うと30歳そこそこか…、当時は10年以上経った時がここまで落ちるとは思っていなかったなぁ。気候も11月下旬なのに日中は薄手でもOKで気候も確実におかしくなっていますね。
今回の記事は身も蓋もないタイトルですが…。毒父、毒母とまとめ的記事を書き毒親のダメ出しを沢山述べたけど、じゃぁ自分自身に反省や後悔はなかったのかと言うとそんな訳は全くないと言うことで…。
今までの記事と重なるところもありますが、今回はダメ出し、後悔、失敗を踏まえて私の今までの人生を振り返っていきます。※いつも通り長文、卑屈、愚痴満載、まとまりなし文章なのでご注意ください。
誕生の時から生き辛そうな要素があった
流石に赤ちゃんの時の記憶はないのでアルバム写真での印象ですが、赤ちゃんの時から笑顔がありませんでした(苦笑)。どの写真もどことなく不機嫌で無表情…これは小学校に入ってから10代ほぼ全ての写真共通です。姉は笑顔いっぱいだと言うのに皮肉ですよね。
誕生から今までの簡単なプロフィールはこちらです。

誕生日も予定より5日ほど遅れての出産だったそうで、相当生まれてきたくなかったのかなと(苦笑)。以前の記事にも書きましたが言葉を発することも遅かったので、笑顔なしであまり喋られないと生きていく上で2つの大きいハンデを抱えたことで既に幼少の時から生き辛さのフラグがしっかりと立ってしまいました。
中学高校の暗黒な学生時代
中学では学年全体でのいじめを受け毒親からも否定されるしで、時が経った今でも記憶が薄らいだだけで傷が癒えることはありません。今思うと学校なんて国や親の洗脳と子供からのいじめの標的と、下手すると全てが敵状態のトラウマを早々に植えつけられる施設ですよ。おまけにあれほどに嫌な思いをして通い続けた学校なのに、勉強も集団経験も大人になって役に立ったことなんてありません。
高校では苛めグループの大方と離れた高校へ行けたものの、対人能力が壊滅した為に良い人間関係が築ける訳がなく、毎日が緊張と不安、よそよそしさで一杯の為に、行事は勿論日々の学生生活が常に苦痛でした。
中学高校生活についての記事はこちらです。

小学校についての記事はこちらです。

中高と6年間も陰鬱な学校生活、ましてや一般では輝かしいとされる時に非人間的生活を送ったのでまともな人格に育つ訳がありません。何とか高校卒業まではしたもののしっかりと無能無気力人間が出来上がりました。
それでも専門学校を2年間(社会人後の学校生活を併せると4年)通い、学校生活を遅まきながらも私なりに楽しんだとはいえ、やはり中高で徹底的に痛めつけられた経験はハンデが大きすぎです。後々の人生にしっかりと響きましたよ。
専門学校生活についての記事はこちらです。

写真を見ても10代は殆どが無表情。専門学校時は自分の無表情さに危機感が募り笑顔の練習を秘かにした結果、不格好ながらも10代よりはなんとか笑顔をつくれるようになりましたが…。まぁ既に写真そのものが嫌いだったので撮った数はとても少なかったです。
短期離職を繰り返し数年のニート生活でますます社会不適合に
新卒で一度落ちるとほぼ二度と這い上がれない日本社会での就職。私の時には派遣解禁で正社員より派遣社員募集が多く正社員になることは厳しい時でした。それでも新卒なら正社員になる率は高いのですが、私は地元の工場へパートで入り短期で離職を繰り返し正社員には応募しませんでした。途中から正社員になったことはありますが長くは続きませんでした。
何故かと言うと責任を持って働くことが異常に怖かったからです。勿論パートも責任は伴いますが、10代のほぼ全部、幼少からでも約20年間人生が上手くいかなかったトラウマがしっかり結びついてしまい、どうしても自分がしっかりと仕事が出来ると考えられなかったんですよね。
そして人がとても怖かった。でも家にずっと居る訳にはいかないので、不景気を理由にあえて離職しやすい非正規で転々としました。
正社員についての記事はこちらです。

2か所目の専門学校生活を経て20代後半は無気力に陥りニートに。今までも基本的に無気力だったし、20代後半と言う仕事面で言うと最後のチャンスの年でもあったのですが、ここでぷつんと心が折れたと言うか、完全に働きたくなくなってしまったんですよね…。
毒親がまだ若く工場も安定していたので緊急性もなかったし、姉の結婚と姪っ子誕生に毒親の視線が集まり、私はまぁ放置されていたので家でのんきに暮らしていました。と言っても一般のニート認識ほど完全解放ではなく、毎日毎時間ずっと自分が出来ない人間、人生落伍者の罪悪感と劣等感で一杯だったので、傍目にはのんきに見えて将来のことをどう考えているのかと思われていたのでしょうが、内心は生きた心地はしませんでした。
後から思うと数年も家に居たの?ですが当事者としては過ごしていくうちに数年経ってしまったと言うか…。でも親が日中居ない家に一人で過ごせたのは楽でしたが。
30代の5年ほどの職歴と毒親との生活で燃え尽きた
親経営の工場が廃業になり今までは生活の安定で何とか持っていた毒親の雰囲気も悪化してしまい、家にこれ以上居る訳にはいかなくなり、ニート生活に別れを告げて嫌々仕事を探しました。
この時点で30代突入、数年の空白期間、求人数そのものが少ない田舎と悪条件勢ぞろいの中でまともな仕事先が見つかる訳がありません。それでも1件目は小さな工場現場で1年半、2件目は1件目より設備はまともだけど人間関係最悪な工場で4年少しと何とか続けました。
流石に貯金額を見て危機感を覚えたのと、毒親と1日家に居るのは嫌と言うのが大きい理由で私にしては頑張りましたが、心がどんどん病んでいき毒母の病死と毒父との2人同居が極めつけとなり心が完全に死にましたね…。
20代と30代の仕事の記事はこちらです。

劣悪な職場で働きながら給料は毒母の無心、心は毒母の愚痴で取られ、毒母の療養数か月の間は思考停止と言うほどのきつい期間。毒父との同居は今までちやほやされてきた後に金がない今、支配欲と無神経が最大の毒父を相手にせざるを得ないと完全にメンタル壊滅です。
毒父との同居ストレスについての記事はこちらです。

2件目の仕事先では精神的に限界で貯金はないけど退職、その後見つけた仕事先でも1か月で退職し、最後の頼みの綱の在宅ワークも結局無能は何をしても無能と言うことで稼げる訳がなく、30代は心身ボロボロで全てに諦めがついた年でした。
働くことに向いていないと痛感した記事はこちらです。

もし一人暮らしをしていても詰んでいた可能性が高い
今まで1人暮らしが最大の毒親対策と書いてきましたし、自分も何度も1人暮らしをしていればと思ったかしれません。だけど一方では一人暮らしをしていても失敗していたかもなぁとも思います。
基本能力が備わる大切な10代が壊滅。壊滅状態からの1人暮らしは普通以上の生活から新しい環境へのように希望的1人暮らしとは全く違います。それに自分の仕事能力では安定した給料の職場なんて望める訳がないので、住むのに耐えられる物件があるのかどうか…。
実際毒父との同居ストレスで数年前にこっそりと不動産めぐりをしましたが、自分の生活力を見せつけられるような物件ばかりで心が折れ、悔しいけど毒父の家を飛び出すまでのハングリーさはありませんでした。
20代前半とかもっと若い時だったら勢いでいけたかもしれませんが…。勢いは大事ですね。年齢だけではないけど、年をとる度に色々なことに年齢は大いに関係があるなぁと痛感します。
若いことは大きな財産と思うことについての記事はこちらです。

早々に自分に見切りをつけてほどほどに生活をするべきだった
思えば幼少の頃から基本能力が低いのは自分なりに分かっていました。運動とかはっきり分かる物だけではなく、普通に人がこなせる日常動作から出来ないことが多かったです。服のボタンをかけること、靴ひもを結ぶこと、三角巾やハチマキを縛ること、人の顔と名前を一致することなど。
致命的なのが人前で何かをやることが極端に苦手なことですね。失敗を恐れるから余計にこなすことが遅くなってしまいそれがまたトラウマになる負のループに。よく努力とか克服とか慣れとか言うけど、自分が出来ないこと惨めなことに向き合うのは相当な精神力がいります。
だからこそ出来ない、苦手なことは早々に見切りをつけて、その分自分が少しでも好きなことと得意なこと、興味があることに力を入れる、自分は社会に適応しづらい人間だと認識したうえで生きる方が、生きることが辛いのは同じでも自分を認める分まだ心は楽だったでしょう。
だけど自分は不適合者ではない、人並みの生活を送れると切望した末に、社会人になっても理不尽や納得いかないことや嫌なことでも我慢して引き受けたり、自分の考えを押し殺し続けたりと、苦手なことをやり続けた結果いいように利用されて壊れてしまいました。そして完全な無気力人間の出来上がりです。
多くのことはどうしようもなかったと今はほぼ諦めましたが、一番の後悔は家でも学校でも社会でも人間関係と言うあやふやなものにずっと力を注いでしまったこと。幼少の頃から既に人間には見切りをつけていたはずなのに、何とか良くしよう、分かって貰おうと自分の力量以上に帆走した末のポイ捨てですから。数年前までは心の底では人を信じていたかったのだから私も意外と純粋だったと言うことでしょうか(笑)
会社での人間関係失敗談についての記事はこちらです。

自分に無理なことやりたくないことは周りの心証を下げてでも早々に断り、世間が言う無責任な言葉をバカ正直に受け止めるべきではなかったんですよねぇ。無能なのに無駄に必要以上に苦しんでしまい自分を追い詰めてしまいました。
まとめ
いじめに会う前から人間関係で心底楽しかったと言う記憶はありません。いつも怖い、苦手、煩わしい思いで一杯でした。異質な雰囲気が中高の苛めのターゲットの原因でもあるんでしょうね。
対人力がないならせめて基本力があり、ほどほどの仕事力くらいは欲しかったです。だけど悲しいかな、特に幼少の頃にトラウマがあると対人力と基本力が低下してしまい結局仕事運にも恵まれにくく生涯ハードな可能性が高いんですよね…。
自分は結局人としてとにかく向いていない気質なんだなと痛感しています。もう人が面倒くさすぎ。基本生活も対人関係も生きていくだけでどれだけの束縛があるのか…。人生が楽しい人や成功した人は大抵が要領良いか、才能や美貌に恵まれているか、強欲か、無神経かです。欲すらもそれほど強くない私には、間違えて人間に産まれてしまったとしか思えません。
卑屈一直線ですが、約40年間も否定と後悔、失敗の連続であれば卑屈や諦めになりますよ…。才能も美貌も友人もある人は確かに凄く羨ましいけど、やはりまともな親の元で生まれた人が最も羨ましいです。
生き辛くて長年もがいている人達の大きい共通点は家族に恵まれなかったことがあると思います。最大の味方であるはずの親が逆に敵であるのは本当人生の最大のハンデなんですよ…。しかも当時は気づかず大人になってからもう取り返し難しい時点で漸く気づくことが多いので更に絶望的です。
同じ毒親でも姉は今こそ大変だけど基本順風満帆の愛され性格なので親のせいにするなと言われそうですが、兄弟姉妹の中で親からの扱いの差を感じることは結構多いと思うし影響あると思います。
ところで毒親育ちの大抵は長女(長男)が大変で、弟妹が良い思いをしている内容のブログが多いところを見ると妹の私はやはり余程要領が悪いんだなと改めてショック…。
姉の時には仕事をしていて私の時には仕事せず家でのんびり過ごしていたからの性格差かなと毒母が以前言っていましたが、出産前の時の母親の生活や状態は赤ちゃんの性格に影響あるんでしょうかね。もしそうなら活発に生活してせめて明るい子供に産んでくれよ…このご時世で大人しいなんてデメリットでしかないんですから。はぁ…。
改めてろくでもない人生に泣けてきました。まぁ親、学校、社会、会社すべてに否定されたようなものなので流石にもう諦めはつきましたが。こんなんで40年そこそこ生きてきたのは結局経済力があった親のおかげなんでしょう(経済力はあっても大浪費家でどうしようもない毒親なので勿論感謝とかではありませんが)。
けれど精神的支配と束縛の末に惨めで屈辱な人生を送る位なら、そこそこ楽しいことはあったけどやはり生まれてきたくなかった。少なくとも人間には二度と産まれたくありません。